部落問題学習と小学校の社会科教育(1997)

部落問題学習と小学校の社会科教育

 教育課題としての部落問題が解消しているにもかかわらず、大阪では解放教育における「部落問題学習」は依然として行われ、「特別な意識」を育てるものとなっている。

 ここでは、まず解放教育における部落問題学習とは現在どのようなものになっているかを紹介し、次に「小学校で部落問題をあつかわない」社会科教育でめざすものを明らかにしたい。

一、「解放教育」における部落問題学習

 大阪府教委は毎年『同和教育のための資料』を各学校に配布している。その1995年版に6年生の「渋染め一揆」の実践例がある。

 その教材観に「幕藩体制は…『士農工商』と『それよりも低い立場におかれた入々』という身分制度を作ってきた。…農民への厳しい締め付けは幕末になるほど、苛酷なものに発展した。飢饉がそれに輪をかけ、農民(とりわけ被差別部落民)への支配状況は、筆舌に尽くせぬものであった。このような社会状況のもとで、農民や町人の一揆、打ち壊しも増加し、幕府は体制維持のために被差別部落民への締め付けをより苛酷なものにしていった。…」とし、身分制の強調と“貧農史観”にもとづく実践を展開する。“暗く重い江戸時代”である。

 1996年版では「部落解放を担う子どもの育成をはかる教育内容の創造」がある。

 学力向上研究・学習指導形態研究(T・T)など教育活動全体でとりくもう としつつ、そのトップに「部落解放学習」研究をおいている。そのキャッチフレーズは「夢と希望を持てる部落解放学習」である。

 内容はと見ると、その学習は「部落の子どもたちの生き方を励ます学習とならなければいけない。…子どもたちが顔を上げ、瞳を輝かせるような取組みで終わらせなければならない」と従来の「部落解放学習」への反省しきりである。

 ところがすぐ後段に「今なお残存している差別の実態の重さや深刻さの認識にとどまるのではなく」と続き、「部落の果たしてきた『労働と生産のエネルギー』や『生活と文化創造のエネルギー』を学びとり、生命の大切さと人権の尊さを求めて闘い続けてきた人々の力強さやあたたかさにしっかり触れ、誇りと、夢と、希望の持てるような、部落解放学習の実践に努めてきた」とある。

 部落をとりまく環境の大きな変化を無視し、「今なお残存している差別の実態の重さや深刻さの認識」を子どもたちに求め、その結果引き起こされる子どもたちの抱く暗いイメージの克服を(記述がないのでもう一つはっきりしないが)近代・現代の社会問題である部落問題を前近代までさかのぼらせ、かつ、その「生産と文化」に求めるという二重三重の誤りをもつものとなっている。

 今なお子どもたちに「特別な意識と認識」を育てようとしているのである。つまり「誇りと、夢と、希望」などという口あたりの良い言葉で糊塗しようとしているにすぎないのである。

二、社会科のめざすもの

 では、「部落問題をあつかわない」社会科とは、社会科のめざすものとは何かを明らかにしていきたい。

 まず社会科とは何か、ということである。一言で言えば、社会のさまざまなできごとを関連づけて考え、みんなの幸せを追求できるモラルを子どもたちに身につけさせるものである。

 そのために、そして社会科をとおして子どもたちをかしこくするために、小学校社会科学習の中で(1)空間認識・(2)時間認識・(3)原因と結果の関係をとらえる力が必要である。

(1)空間認識を育てる

 空間認識は、子どもたちの「島の思考」から「陸地の思考」へと発展させるために小学校低学年から中学年で意識的に育てるものである。ここでは三年生「校区探険・絵地図づくり」の実践から紹介したい。

「校区探険・絵地図づくり」

 三年生の子どもたちにとって家のまわりや通学路の周囲、そして学校のまわりぐらいが知っている空間だろう。すぐ近くでも交通量の多い道路があれば、それに遮られ目と鼻の先にあるものでも気がついていないものだ。危険がいっぱいの地域でもある。校区といっても子どもたちの知りえている空間は限られている。

 そこで校区全域を“たんけん”することになる。授業時間だけでなく、放課後、家庭の協力も得ながら、グループで行う。

 彼らはかえるに出会えばつきあうなど地域の自然にふれながら、こわいおじいさんに会えばいたずらを叱られ、遊んだことのない小さな公園に目を輝かせながら、プリントに地域のようすを記して行く。

 商店が立ち並んでいる所・マンションの多い所、田畑が川ぞいの土地の低い所に広がっていることなど。

 このように子どもたち(人間)は、歩くスピードで空間を認識するのである。

 そして点から線・面として校区を知っていく。低学年で前後左右・上下をつかみ、三年生で東西南北、四方位を知る。

 教室では模造紙四枚の大きさの絵地図をグループで分担してつくっていくのである。ここで子どもたちは、調査した地域を絵地図に書き表し、立体の世界を平面にうつしかえるという抽象化する力を育んでいく。

 しかしすんなりとは絵地図に仕上がっていかない。

 と言うのは子どもたちの調査はすこぶる“主観的”なもので、ある子にとってグリーンマンションはスカイマンションの「向こう側」にあり、他の子には手前にあるのだ。両方とも事実なのだ。スカイマンションから見れば「向こう側」にあり、グリーンマンションから見れば手前なのだから。見る位置が定まっていないからなのである。そこで話し合いがつかず、もう一度フィールドワークをすることになる。視点を決めるということを学んでいく。

 このようにして、集団で調査し、集団で思考を高めながら、絵地図をつくるという目的に力を合わせていく。

 仕上がった絵地図から校区の中央部東から西にマンションが多くあり、真ん中に商店街、南側に田畑が点在していると校区内の特色をつかみ、住宅の多い校区全体の特色を知っていくのである。

(2) 時間認識

 時間認識は、「昨日・今日・明日」から「過去・現在・未来」へと歴史認識につながるもので中学年から高学年で意図的に育む必要がある。自分の存在しなかった時間があり、今の自分、将来があり、死がある、やはり自分の存在しない時間が続いていく。

 こういう認識は自分自身を相対化し、客観的な思考を伸ばすものである。思春期で「もう一人の自分」を発見する営みをはげますものである。今を、未来を切り開こうとする姿勢を育てていくのである。

 ここでは3年生の「地域のくらしのうつりかわり」(『どの子も伸びる』1991年6月号)の実践から紹介したい。
『竹やぶがつぶされる-地域のくらしのうつりかわり』

 この学習の前半は「戦争のころ」で、お墓しらべ・戦争中のくらしをとりあげ、後半は敗戦から校区にとっての「高度経済成長期」のころで、地域の変貌をとらえさせたいと考えた。地域のくらしの主役として、子どもたちに未来を見つめさせたいと意図した。

 ねらいは、

○くらしのうつりかわりを知らせ、時間認識を育てる。

○人々のくらしのねがいを知り、地域の主人公として未来を見つめる目の素地を育てる。

 指導時間は全20時間で、導入として学校のうつりかわりを5時間、戦争のころ6時間、戦争後のくらし・「高度経済成長期」9時間である。戦争のころ・高度成長期のころ・今の3つの時代を食事・勉強・遊びでくらべて、子どもたちに考えさせようとした。 「戦争のころのくらし-おじいちゃん・おばあちゃんの子どものころのくらし」

 おじいちゃん・おばあちゃんに、戦争のころのくらしのようすをどの子もたずねられるように、冬休みに聞きとりを宿題とした。その“いなか”が全国に広がっているのでじっくり聞きとってきてほしいと考えたのである。

せんそうの話

大樹

 きょうおじいちゃんの家に行きました。おじいちゃんにせんそうのときのことを聞くと、話しにくそうにしていた。

 おぼえているか、おぼえていないか、それともせんそうで悲しいことがあったのかもしれないけど、ぼくのために言ってくれたのかなあと思った。こたえる時も考えながら、いいにくそうにしていた。おじいちゃんはむかしのことだからおぼえていないと、ぼくは思いました。おじいちゃんに

「せんそうのころ、何を食べていたの。」

と聞くと、

「だいこんのはっぱ、まだいっぱいあった。」

と言いました。ぼくはだいこんのはっぱは食べられるかどうかわからないけど、むかしはそんな食べものしかなかったのかなあ、と思いました。

 おじいちゃんに聞き終わると、ほっとしました。なぜと言うと、おぼえていてくれなかったらしゅくだいができないから。おぼえていてくれてよかった。

 大好きなおじいちゃん・おばあちゃんからの聞きとりは、子どもたちにとって印象深いものになったようだ。おじいちゃん・おばあちゃんにとっても我が子には伝えにくいものでも、かわいい孫たちには語れるものだ。授業ではたくさんの子が勢いよく手をあげ発表していた。次にそれぞれの“いなか”のおじいちゃんの戦争にいった体験を、地域のお墓しらべに重ねた。そのフィールドワークのようすを日記から紹介する。

おはかしらべ

美里

 どんどをやったはたけの上の竹やぶにかこまれているおはかをしらべに行った。このクラスにも数人、おじいちゃん・おばあちゃんのおはかがある人がいる。とんがりぼうしがついているおはかは、せんそうでなくなった人たちだ。

 その中には学校の先生だった人もいた。ニューギニアとかルソン島のげきせんでせん死した人たちもいた。先生の話を聞いてかなしくなった。兄弟でせんそうに行ってせん死した人たちのおはかもあった。私はときどき(なんでせんそうなんかするんだろう、人がかなしむだけなのに。)と思った。せん死した人たちはきっと家に帰りたかっただろうな。

 私は次のように赤ペンを入れた。「そうでしょうね。今生きておられれば、あなたたちのやさしいおじいちゃんと同じようにくらしておられるでしょうに。」

 戦争中の食事・勉強・遊びでは戦争にいったことよりいっそう活発に発表する。そのおわりに、

T どんな時代だったか考えてみて。戦争にいったクラスのおじいちゃんを調べましたね。校区のお墓も調べました。戦争中のくらしも調べました。戦争のころのくらしはどんなだろう。

C 今とくらべて貧しい。
C 今ではありえないくらしをしていた。
C 大変。
C 特に爆弾、戦争であぶなかった。
C 食事が少ない。
C 遊びで戦争ごっこがあるから、戦争にいって死にたいみたいだ。

T 戦争て何だろう。

C 殺し合い。
C 死にいくため。
C 戦争で貧しいから、生きるの大変。

 子どもたちは今の生活とくらべて考え、戦争のころをまとめた。戦争とは殺し合いで、命・もっとも基本的な人権が奪われていたということをである。

「戦争後のくらし-お父さん・お母さんの子どものころのくらし」

 戦争中のくらしと同様に子どもたちに聞きとらせた、今度はお父さん・お母さんだ。その出身地は北は北海道、南は鹿児島に広がっているので、まず「生まれた場所しらべ」、ついでなぜ大阪に来たのか、そしてどうして校区にうつり住むようになったのかを、今の校区のくらしへと絞りこむように学習していった。

 どうして大阪にいるのか考えた。

C お父さんは広島から引っこしてきた。

T お父さんは、お母さんと結婚してここに来たの?
C だからね。お母さんがね、大阪にいてね、飲みに行ってね。その時に会ってね。それでなんとか…。お父さんが広島にいてて、こっちに会社を見つけて、それで出会った。会社の社長さんの家でくらしていた。

T ふうん。そうなの。他にどうですか。
C ちょうど仕事をするところが、大阪やから。
C 大阪に働きにきた。
C 大阪の大学に入りたかった。

T 大学が終わったら、いなかに帰ったら。どうして大阪に住んでいるんだろうね。
C いろいろめんどくさいから。(親の所に帰りたいよ)
C 鶴間君は、なぜ大阪なの? 前は名古屋だったのに。
C 転勤。(おれも転勤)(転勤)

 そして、子どもたちが親から聞きとった「大阪に住んでいるわけ」を発表。

 わたしの家のお父さんは、岡山の方であんまりいい仕事がないから、大阪の仕事をさがして、住んでいた。お母さんはそのまま校区だから、はじめから大阪に住んでいます。 (ひとみ)

 …ぼくはお母さんにどうして大阪に住んでいるか聞いた。そしたら「ちょうど仕事する所が大阪やから。」とか言った。ぼくは大阪は空気はひでえけど、とてもべんりなものがあるから、大阪に住んでてよかった。(大智)

 お母さんとお父さんは福井県から大阪に引っこしてきた。

 なぜ引っこしてきたかわけを言うと、お父さんの仕事が大阪だかち引っこしてきた。今日は、お父さんが盛岡からかえってくる日だ。お父さんは盛岡にいるときはコートをきながら、こたつに入っていた。わたしはこういうふうに思った。(そんなに盛岡はさむいのかな。)と思いました。お父さんはかえってきたら、ねてしまいました。(ゆか)

 一番のわけは仕事らしいということがわかった。しかし子どもの発言や発表からストンとおちていたわけではなく、どうやらそうらしいという程度である。三年生の子どもたちの発達段階では、これが限界で無理なようだ。(この次に実践した時には仕事との関係は追求しなかった。)よりよいくらしを求めて大阪へ、ということで十分だと考えられた。

 つづいて「お父さん・お母さんの子どものころのくらし」にうつり、子どもたちがとりわけ集中したのが遊びだ。

 お母さんの子どものころ

果南

 …家にはテレビがないので、外であそんでいた。外ではたんていごっこ、かんけり、ゴムとび、石けり、宝島などをしていた。…おふろはまきをわって、もやして、おんどをちょうせつする。お手伝いもよくしたという。お母さんが生まれた時、お父さんがくりの木をうえた。小学生になるころには、家の屋根より高くなっていた。お母さんは犬をかっていた。体が大きいのに「まめ」という名前だ。こわがりやでかみなりや花火の音がこわくて、「キューキュー」と鳴いている。にわとりもかっていた。だからお母さんは今でも鳥肉が食べられない。やぎもかっていた。草もいっぱい食べた。台風の時雨戸をしめて、われないようにガラス戸をおさえる。てい電の時はろうそくですごした。

かんそう

 わたしは、動物たちと近くにいられるので、うらやましい。マンションなので動物はかえない。わたしはまきをわってみたい。どんな手ごたえがするのだろう。

 このような発表のたびに、子どもたちは好奇心と羨望の思いで聞き入っていた。

 この後、「市の人口の変化とクラスの友だちの家が今のところにうつってきた年」「校区にうつってきたわけ」「北山田小学校区の一〇年」「吹田市の人口の変化と校区」とつづき、実践の最後に「お父さん・お母さんの子どものころとあなたたちのくらしでちがうこと」を考えた。子どもたちの多くは遊びにふれ、考えていた。

 竹とんぼ・竹馬・お手玉などの遊びと今のファミコンやミニ四くと全ぜんちがう遊びをやっている。遊びなんかは電池・電気などを使っていないけど、今は電気・電池を使っている遊びが多い。(聖子)

 食べ物が今とくらべてしゅるいが少ない。魚のにものなどが多かったようだから、今の子どもにくらべてカルシウムが多い。たん生日にケーキではなくてバナナやカレーライスが多かった。家も木造で、道は土や石がまじっていた…。(靖史)

 …むかしは野原や空き地・川などがあった。今ではそれをどんどんこわし、家やマンションをつくる。遊ぶところが少なくなる。いやだ。ぼくはうっといと思う。なぜこわすんだろう。いやだ。(遙)

 ちがうもの-遊びや食べ物や着るものとか、林や空き地とかがあって家も少ない。思ったこと-お父さん・お母さんの子どものころは、わたしたちのくらしがいいと思っただろうけど、わたしは今よりむかしの方がいいと思います(絵里)

 「今よりむかしの方がいい」と思うのは、今の遊び・勉強をくらべて考えているのだ。

 思ったこと

祐二

 つくしをとった。竹やぶも万ぱくのところもつぶされるだろうな。ぼくは竹やぶがなくなる前から思った。ぼくはつぶされてから、(やっぱり。)と思った。それからカラスも竹やぶがなくなって、ゴルフのところの竹やぶしかのこっていない。だけどカラスははいりきれなくて、学校にもばいきている。これいじょう竹やぶをこわすと、学校をうめるまで、カラスがくるかもしれない。ほかにも竹やぶにへび・虫・ほかの鳥もすんでいるかもしれないのに、どんどんこわす。ガレージやビルのために、いっしょうけんめいなん年もかけてのびた竹がかわいそう。

 子どもたちは「今」を生きる存在である。地域はなくてはならないものだ。お父さん・お母さんの子どものころとの遊び・くらしのちがいから、子どもたちは今の遊びの貧しさを知り、遊び場の少なさ・緑の少なさなどに、今後の地域の「開発」の進展にともなっていっそう目をむけていくだろう。”今とちがう昔がある”ということをしっかりつかんだだろうから。

 そして子どもたちの遊びたい、のんびりしたいというねがいを大事にしたいと思う。というのは、子どもの自主性を育む、ひいては主権者意識を育てることの大切さがよく言われる。しかし、そのもとになる子どもたちのねがい・要求は大事にされているのだろうか。日常のねがい・要求が実現されていくつみかさねにもっと目をむけていきたいと思う。社会科学習の中でも子どもたちのねがい・要求を育んでいきたいと思う。知りたい、調べたい、ともだちといっしょにというねがい・要求を。

(3) 原因と結果の関係をとらえる力

 原因と結果の関係をとらえる力は、どの学年でもそれぞれの段階で育てられなければならないが、やはり論理的な思考が芽生える中学年以降が大切であろう。小学校でどの程度までという吟味も忘れてはならない。ややもすると発達段階を無視して教え込む、その結果「徳目」におちいる実践になってしまう例が見られるからだ。

 ここでは4年生の「地域の開発」の実践(『どの子も伸びる』1992年3月号)から紹介したい。

『何のため?だれのため? -ため池と人々のくらし』

 これは、地域に点在するため池の歴史を学び、ため池に託したくらしのねがい、埋めたてられていくため池の現状をつかみ、くらしの主役として地域の未来を考えてほしいとねがった実践である。

 この単元は開発教材とよばれている。現代の開発は、とりわけ高度経済成長期のそれは、自然破壊・環境破壊と同義語である場合が多い。地域に住む人々の現在・未来のくらしを展望するのにふさわしい教材を用意しなければ、主権者としての資質・能力を育てることはむずかしいと考えている。

 そこで地域の問題は、現代日本のかかえる問題と重なるという視点から、過去・現在・未来へ連なる歴史認識・社会認識を育てるものにしたいと構想した。

 ため池をとりあげたのは、

① 子どもの日常の生活で目にふれるため池を扱うことによって、子どもたちの興味・関心を高めることができると考えたからだ。

 そして② 子どもたちのなじみ深い公園は自治会所有のため池の一部を埋め立てたもので、その他の埋め立て部分は駐車場・自治会施設・住宅となっており、現在の開発の典型的表現となっている。そこから過去のため池と人々のくらしを学習することによって、

 ③ 地域(ため池)のこれからを考えることができると構成した。

ねらいは、

○ ため池には、くらしを豊かにしようとした地域の人々のねがいがあったことを知る。 ○ 現在のため池のようすを知り、くらしを豊かにするために地域の開発に関心をもつ。

 指導計画は全13時間で、昔の吹田市と校区のため池を調べ、たくさんのため池があったことを知る。(2時間)

なぜたくさんあったのか考え、校区のため池を調べる。(5時間)

ため池をつくる苦労とそのねがいを考える。(4時間)

今の吹田市と校区のため池を調べ、たくさん埋め立てられていることを知り、これからのため池のあり方を考える。(2時間)

ため池をしらべる-”何のため”

s1 まず校区のため池の数をプリントに色をぬりながら調べ、市全体でどの位あったかを予想。三千から四千あったと知らせると驚く。再び予想。「なぜ、こんなにたくさんのため池があったのか」(資料1)を考え、その証拠を見つけるためにクラスごとにフィールドワーク。(降水量の少ないことは後で学習する。)

 調査で子どもたちは「池の中に十字かみたいなくいがあった。そしてそのまわりに水の流れる場所があった。くいはきっと水のせんだろう。」(佑奈)だから田に入れる水をためるためだと。池の南東にも水門があり、用水路が続いている。たどっていくと、何枚も田があり水を引いている。

 その先に野田さんの田がある。野田さんの田は用水路より高い所にあり、子どもたちはその田の上に「池がある」のを見つける。そこにも“十字架”があり、樋がありうわびもある。池の下に田、その下に池・田と土地の高低を利用して、水を無駄にしないしくみを見つけたのである(資料2)。

s2 教室で証拠から何のために池があったのか確かめた。

s3 「田」「田」「田んぼの水」「田んぼの水」と口々に子どもたち。ことばでそのわけをはっきりさせたくて「その証拠を言って」「まわりの池の
近くに田んぼがあったし、そこに水門があって、田んぼにつながっていた」…というわけで、子どもたちみんなが、田んぼに使う水をためるために池があるということがしっかりとわかったのである。樋・うわびなどの説明をした。十字架を抜くと、池の底から(池の水を残さないで)水が流れ出す、支えている土も水の勢いで流れてしまう(資料3)。

 野田さんの二つの池と四つの田とのしくみを大きくしたものが山田地域全体にある(資料4)。

s4ため池の歴史-“だれのため”

 ため池は“だれのため”のものか、池の歴史を学習。その資料として使ったものが古文書や民話。今とはちがうさむらいの世の中を考えた。

ため池がつくられた

 今からおよそ三〇〇年前(さむらいの世の中)に、岸部でため池をつくったという記録があります。村人たちは、自分たちでお金を出したり、借りたりしたのですが。

「わたしたち(村人)は、『池のそこにしずんでしまう田や畑の年ぐはおさめますから、ため池をつくらせてください』と、との様にたのみました。ゆるしをもらい、たくさんのお金を借りて、ため池をつくりました。でも、借りたお金を返すことができません。少しでもお金を返したいので、池になってなくなった田や畑の年ぐをまけてください。」

※年ぐ…との様にはらうぜい金

 どんなねがいでつくられたのか考え、そして水不足がなくなったのか予想、「池の水を使っている田んぼの広さ(資料5)で調べた。

s5 池の水を使っていた田は斜線部分で、ほぼ一〇倍の広さであることをつかみ、深くほれないので、あまり水をためられないことがわかった。子どもたち全員が「水不足は少しなくなった」。そこで水争いの民話『殿池のがたろ』の読み聞かせ、ため息や「ああ、おもしろかった」と子どもたち。よくわかったようだ。

 さむらいの時代について、米は主食・人口のほとんどは農民・年ぐは米ではらう・一揆などについて説明した。一揆の民話『身代わり入牢』は社会のしくみにかかわる内容で、子どもたちにはむずかしかったようだ。
ため池の変身を考える

-“何のため”“だれのため”

s6 「ため池の変身」(資料6)を使って、クラスの半数以上が住むマンションから二、三分の所にある引谷池、よく遊びに行く引谷公園を取り上げた。

 引谷池の埋め立てられる前と後をくらべさせ、色をぬらせた。公園は緑・住宅は黄色・駐車場は赤という色分けで。その色分けにしたがって、校区とその周辺の池のようすにも色をぬっていく。

 そして、「今この地域に住んでいるわたしたちのくらしをより豊かにするために、ため池をどんな姿に変身させたらよいでしょう」とたずねた。

全部変身(全部埋め立て)13人・一部変身(一部埋め立て)8人・変身させない(埋め立てない)12人となった。

全部変身

ため池をうめたてて、空き地や遊び場をつくってほしい。北グランドをつぶされて野球をする広場がなくなったから。(亮)

公園。万博みたいな緑の多い所でお金を出さなくても入れる公園、ため池をうめる。(聖子)

一部変身

ため池は半分おいといて、遊び場がへってるからはらっぱや公園とかにしてほしい。(佑奈)

ため池をちょっとうめる。みんなが幸せになる店、このへんになくて遠くにある店(デパート)。残ったため池はそのままにしておく。(ひとみ)

変身させない

王子池はこのままでいい。これ以上マンションがたったら、池が全部なくなってしまうから。(勇)

べつに変身させたくない!だけど今の池はとってもごみとかういていたり、にごったりしてきたない。だからもっと生きものたちがいっぱいすめて、きれいな池にしてほしい。(彩花)

 次時は今までの学習での知識・思考をクラスの友だちとの話し合いをとおして、いかに選択して自分の考えにまとめるかがねらいとなる。「全部変身・一部変身・変身させない」に分けて、グループにした。グループの中で一人ひとりの意見を出しあって話し合い、グループとしての意見をまとめた。

T 班の考えがまとまっていない班は、発表する人が自分の考えでおぎなったり、他の人がつけたしたりしてください。はい、発表して。

典子 田んぼを埋め立ててまでつくったため池だから、あまり埋め立てたくない。これ以上自然破壊すると空気が汚れるから、遊び場がへるから埋め立てないでほしい。

聖子 全部埋め立てたら田や畑に水をおくれないし、田畑がなくなったら食物がなくなるし、埋め立てなかったらみんなで楽しめる場所がないし、半分にへらしたらと思います。自然のあるみんなが楽しいものをつくればいい。

祥吾 どうせ一個ぐらい埋め立てるなら、老人総合センターや公園とか役にたつものをつくった方がいいから。水をきれいにして、生き物を育てればいいと思う。

(埋め立てない、そのままがいい)

(池はそのままでいい。王子池をつぶすな。)

晋典 これ以上マンションはいらん。魚たちが死んでしまう。それだし、昔の人が牢に入る思いでつくったからつぶすな。

(全部埋めたいところだ)(おそろしいよ)(何が)

香帆 山田は緑が少ないから、埋め立てて、お年寄りから子どもまで楽しく遊べる公園、緑のたくさんある公園をつくればいい。だって緑がたくさんある所といえば、万博しかないから。

憲司 半分は農民、ため池をつくった農民に関係のある博物館をつくればいい。

武 自然破壊されているから、自然の多い広場をいっぱいつくって遊べばいい。

T さあ、みんな。発表を聞いてどう思ったかな?

(やっぱりおれたちの意見)

T 全部変身、一部変身、変身させないとあるんだけど、みんなが同じことを言っていることがあるんだけどねえ。

C 広場や公園、遊び場。

C 自然…。

 話し合いは続くが、最後に一人ひとり考えてどれにするか挙手させた。その数が板書に記されている(資料7)。結局、一部変身が29人と多数になった。

s7 共通している「これ以上マンションはいらない」と「緑・自然、遊び場・広場」がほしいというねがい、安易な開発に否定的というところでまとめられると思う。

 この授業の後、学習全体をふりかえっての感想文を子どもたちに書かせた。そこでも多くは一部変身であった。

ため池と人々の苦労

絵里

 私が最初わかったことは、ため池をつくる苦労です。昔は今みたいに機械がないから、農民たちもすごく苦労して、やめたくなったかもしれないのに、それでも年ぐをはらうためにあきらめないでため池を作ったから、(すごいな。)と思いました。今まで、ずっと昔の人たちが作ったため池で水を引いて、お米を作っていたなんて、まるでため池やたあ池を作った人々にありがたみを感じました。

 でも人々が苦労して作ったため池をつぶして、建物とか作ってしまうと、人々の苦労が水のあわになってしまうけど、その建物とかが役に立つんなら、その作った昔の人々の苦労も水のあわにならなくてすむと思いました。

 この実践で地域の主役の一人としてため池の未来を考えた。子どもたちの多く(85%)はマンションに住んでいる。竹やぶ・田んぼをつぶしてできたものだ。学校もである。

 でも今を大切にする視点、そこから過去をふり返り、未来を見つめることを学んでいったのではないかと思う。

 それは昔の人々も地域のくらしを豊かにとねがってつくりかえたのであるし、埋め立てる場合も今の地域の人々の生活を向上させるためのものであるはずだ。昔も今もそして未来も。そして子どもたちの当然の権利としての遊び場・空間の要求がある。地域はみんなのものという視点、主権者意識を育てたと考えている。
人間が社会をつくる

 空間認識・時間認識・原因と結果の関係をとらえる力、このような力を育てていくことによって、社会には自然の世界と人間が意図的につくった世界とがあって、その大部分は人間が意図的につくったものであることがわかるようになるのである。

 つまり社会を合理的にみんなの幸せを追求できるものにできる、可能であるということを子どもたちの認識とモラルにすることができるのである。

 6年生になって、歴史学習、くらしとむすびつけての憲法学習を学び、”人々のくらしを高めようとするねがいによって、社会は発展してきているのだ”という小学校社会科のめざすものが完結するのである。その際、どの学年でも見える世界を手がかりに、見えない世界にわたらせることに意をつくす、具体的な思考から抽象的思考へという原則が大事にされなければならないのは当然である。

 紙面の関係で、小学校の各領域でのねらいにふれることができなくなってしまった。

 ひとつだけ簡単にふれておきたい。それは、各領域でのねらいの中でとりわけ、近世をどうとらえるのかが問題になっていることである。

 私たち「どの子も伸びる研究会」では、九六年二月に機関誌で『人権と民主主義の教育実践』の特集をくみ、その中の一つ、人権認識と社会科と題して、和歌山のすぐれた実践をかこんで子どもたちに与えるべき江戸時代像を追求した。

 「江戸時代を身分、身分制の学習にしない。その前提に農民の生産への努力、民衆のくらしを高めようとするねがいが社会を発展させたという時代のイメージをつかませる必要がある」と論議がすすんでいる(『どの子も伸びる』1996年2月臨時号)。

 そして社会科嫌いにふれて、どう社会科を魅力的にしていくかについても簡単に述べておきたい。

 そもそも子どもと教育をとりまく現状において、子どもの要求・ねがいが育まれていないために、くらし・社会へのねがいは育ちにくくなっているのではないか。その上に大人にとって今の社会の分析がむずかしいので、“今を生きる”子どもたちにとって、何のために社会科を学ぶのかという動機づけが大事になっていると考えている。
おわりに

 『どの子も伸びる』1984年3月号に「小学校社会科の部落問題学習」として、故・南部吉嗣氏(大阪歴教協委員長)は次のように述べている。

 「大阪で言えば、今だに副読本『にんげん』が府下全部の小中学校に無償配布され、その使用が強制されている。

 その『にんげん』に強調されていることは、

1、部落を特殊化し、その実態を停滞的に見て、進歩発展の姿をとりあげない。

2、部落の人々と他の人々を区別して、一般民衆を差別者としか見ないこと(部落排外主義)。

3、子どもの認識のすじ道を無視して、早くから部落の知識をつめ込むこと。

4、日本の歴史の中に正しく部落を位置づけないで、部落の歴史だけを特殊化して強調して教えようとしていること。

5、誤った解放理論を持ち込み、解放同盟の運動の論理で教育現場を支配しようとしていること。」

 それから、十数年たっている今、小学校の「部落問題学習」をおわらせ、「特別な意識と認識」は克服されなければならない。

出典:部落問題研究 第140輯(1997年8月)/部落問題研究所・刊

(個人名は仮名にしてあります。)